Home / ファンタジー / 彩雲華胥 / 2-27 君の傍にいる

Share

2-27 君の傍にいる

Author: 柚月なぎ
last update Last Updated: 2025-06-30 08:05:46

「おかしい······確かにもう一着分、替えの衣があったはずなのに」

「もしかして置いてきちゃったのかな? 邸の中は何度も確認して忘れ物はないはずなんだけど、」

「なにか探し物?」

 無明は竜虎にくっついたまま、横でうんうん唸っているふたりに首を傾げる。同時に振り向いた双子に恥ずかしい姿を見られ、いい加減離れろ、と竜虎は無明の身体を押し退けた。

「どうしたの? なにがないの?」

 押し退けられた無明はそのまま地面に手を付き、荷物を漁っているふたりの間に顔を覗かせる。自分たちの間に割って入ってきた無明に気付いたふたりは、手を止めて同時にそれぞれ左右に顔を向けた。

「白笶様の替えの衣が見当たらないんです」

 雪鈴が困った顔で笑みを浮かべる。無明はそれに対して思い当たる出来事があった。

 おそらくふたりが探しているのは、奉納舞の後、口紅の毒に侵され意識を失っている時に掛けてもらった衣のことだろう。結局その後に返しそびれてしまい、碧水に着いて落ち着いてから返そうと思っていた。

「清婉、俺の荷物はどこにある?」

「あ、はい、ここに。どうしたんですか、急に」

 ふたりの後ろで地面に座り込んだ無明に袋を渡し、清婉は不思議そうにその様子を眺めている。

「······あった。この衣、公子様に借りてたんだ。俺が直接返してくる」

「え? あ、はい······なぜ?」

 混乱して、雪鈴は最終的に首を傾げた。

(あいつ······またなんかやらかしたのか? 嫌な予感しかしない)

 竜虎は中心にいる無明の姿に、眉を顰める。そしてその腕の中にある薄青の衣を見るなり、あの時の光景を思い出す。

 白笶が膝の上で眠っている無明の唇を拭っていた、あの光景を。そして後悔する。真っ赤になった顔が真っ青になり、あの恥知らず! と怒りが込み上げてくる。

 それぞれに疑問符を浮かべている者たちをよそに、無明はまっすぐに白笶に駆け寄る。白冰や白漣はその姿を見るなり気を利かせたのか、そそくさとその場から離れていった。

「はい、これ。やっと返せて良かった。俺が着させてあげるね」

「いや、そんなことはさせられない」

 いいから、いいから、と無明は持っていた衣を左腕に掛けて背中に回ると、血で汚れた無残な状態となっている衣に手をかける。皆が各々の気持ちで見守る中、ひとり楽しそうに無明が白笶の衣を脱がせ、新しい衣を着せ替える。

(あいつ······本当になんとも思わずにやってるんだろうな)

 竜虎は引きつりながら、恥知らずな義弟をもはや見ていられないと明後日の方向を向く。

(従者でも奥方でもないのに、なんてこと! さすが無明様)

 清婉は顔を覆いながらもその指の隙間から覗き見る。やはり痴れ者の名は伊達ではなかったと感心すらしていた。あの近づきがたく、怖い雰囲気を纏う白笶公子に、へらへらと接している時点で頭がどうかしている。

(あの白笶様にあんな表情をさせられるなんて。さすがです)

 雪鈴は感動し心の中で称賛していた。その横で雪陽は音を出さずに無言で拍手をしている。

(あんな困り顔、私にはみせたこともないのに······いいものが見れた)

 瞼に焼き付けよう、と白冰は扇で口元を隠して眼を閉じ、しみじみと心の中で呟いた。そもそもなぜ無明が白笶の衣を持っていたのかという根本的な問題はどうでも良く、ただ自分の弟の貴重な困り顔に高揚していた。

「できた! どう? うまくできたかな?」

「問題ない」

 即答し頷く白笶の前に立ち、無明は満足げに笑みを浮かべた。

「白笶様? 白笶殿? 白笶兄さん? うーん。公子様はどれがいい?」

 首を傾げて見上げてくる無明は、特に悪気もなく様々な呼び方で問いかける。白笶はただ石のように固まり、言葉を失っていた。

「年上だから、白笶兄さん? 公子様だからやっぱり白笶殿? ねえ、どれなら嫌じゃない?」

「白笶、でかまわないと前に言った」

 ずっと呼び捨てでかまわないと言っていたのに、無明は結局一度も呼び捨てで名前を呼ぶことはなかった。白笶は落ち着いた声音で答える。へへっと無明は笑みを浮かべて、白笶をじっと翡翠の大きな瞳で見上げた。

 春の暖かな風が強く吹き上げ、長い髪の毛が赤い髪紐と共にふわりと舞い上がった。まるでたった今、空から舞い降りてきたかのように羽織っている衣がひらひらと目の前で揺らめく。花びらと葉っぱが風と共に舞い上がり、周りの者たちも思わず目を閉じてしまうほどだった。

 そんな中、瞬きもせずに見つめてくる白笶の右手を両手で包むように握り、無明は花が咲いたようにあたたかい笑みを浮かべる。

「白笶、俺と友だちになってくれる?」

「······君が、望んでくれるなら」

 それは遠い日の誓いを思い出させた。気が遠くなるくらい昔の、けれども色褪せることのない記憶。

 決して語ることのない泡沫の物語。

 叶わない願いと思っていた。それでも選択した。何年、何十年、何百年、それでも叶わぬならば、千年でも待ち続け、巡り巡っていつか再び目覚めたなら。

 君を迎えに行こう、と。

 たとえ君がすべてを忘れてしまっていても。

 それでもかまわない。

 すべてをかけて守ると、何度でも誓おう。

 そのために永遠の輪廻の禁忌を手にし、君に出逢える日を待っていた。何度も何度も生まれては死に、絶望し、違う人生を生きる。自ら死ぬことは赦されず、誰かに語ることも赦されず、君のいないセカイで何度も一生を繰り返してきた。

 孤独の流転。

 何にも関わらず、ひとりで死んだように生きる日々。

 それでも希望の光は見失わずに。

 そのひと言で、すべてが報われたような気がした。

「君の傍にいる」

 包まれている右手の上に左手を重ねて、白笶は笑みを浮かべた。これは何度となく見ては消えてしまう夢の中ではなく、目の前にある現実。

 もう二度と、失わないように。

 間違えないように。

 後悔しないように。

 この手を離さないと、誓う。

✿〜読み方参照〜✿

無明《むみょう》、白笶《びゃくや》、白冰《はくひょう》、雪鈴《せつれい》、雪陽《せつよう》、清婉《せいえん》、竜虎《りゅうこ》、白漣《はくれん》

碧水《へきすい》

■〜第二章 邂逅〜■ 完結

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (2)
goodnovel comment avatar
柚月なぎ
kyanosさま。 協力したり喧嘩したり仲良くなったりして、やっと友だち認定となりました。白冰さまの火力強めでしたね。ふたりの関係も進展あり! 第三章の舞台は白笶の故郷、碧水となります!
goodnovel comment avatar
kyanos
第二章完結おめでとうございます! 毎週の更新がとても楽しみです。 白笑のお着替えの場面は当の二人より周りの人々の反応が面白くて小さく吹いてしまった。 無明と白笑の絆も徐々に強くなって来たみたい。 第三章も楽しみにしてます!
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 彩雲華胥   5-2 確執

    「姉様、お願いだから、理由を教えてよ! なんで母上をこんな所にっ」 結界牢の見えない壁にへばりついて、椿明は必死に訴える。後で入れられた自分はともかく、宗主はもう何日もここに囚われていた。疫病がなぜか治っているが体調は悪そうだった。「あなたは黙っていればお人形のように可愛らしいのに、どうしてそんな風になってしまったのかしら?」 薄茶色の真っすぐに揃えられた前髪が大人しそうな印象を与える蘭明は、頭の上にお団子を左右に作り、青い小さな花が三つほど付いた飾りを付けていて、残った癖のある髪の毛は背中に垂らしていた。大きな愛らしい灰色の瞳。長い睫毛が彼女の容姿をさらに幼くさせる。 椿明たちとは違い、紺藍の胸元が開いている女性らしい上衣と、裾に白い糸で紋様が描かれた下裳を纏い、藍色の領巾を肩に掛けている。耳には白と紫の花びらが付いた蘭の小さな耳飾りをつけていた。「そこで大人しくしていて。私は宗主代理として、ここに来る大事なお客様をお迎えしないといけないのだから」「なにをするつもりなの?」 宗主はそれが紅鏡の金虎の公子たちと、碧水の白群の公子である甥であること知っていた。そして宗主だけが知っていることを、目の前の娘は知らないのだ。(どうしたらいいの? 神子様も一緒だと言うべき? いえ、駄目よ。本当の目的がわからない以上、神子様の願いを無視はできない) あの日、碧水の地に玄武の陣が咲いた次の日。五大一族の宗主だけに伝えられた願い。 ちょうどこの牢に入れられる前にそれは伝えられた。宗主の間でだけ交わされる特別な通霊で、頭の中に直接、白漣の声が響いたのだ。「ふふ。母上、わかっているでしょう? 私が紅鏡から戻って来てからずっとしてきたことを、目の当たりにしたのだから」「あなた、本当にどうしてしまったの?」 あの四神奉納祭の後、正しくは紅鏡を去る前日の夜から。蘭明はいつものようでどこか違っていた。そして戻って来てから彼女が人知れず行ってきたこと。それは。「特別なお人形がやっと手に入るの。誰にも邪魔はさせないわ」 にっこりと右頬に手を当てて、うっとりとした顔で語る様は、異常としか言いようがない。その変わりように宗主も椿明も言葉を失う。どんな言葉も願いも、彼女にはもう通じないのだと思い知る。 灯篭の仄かな灯が地下を照らしていたが、蘭明が去った後に薄闇へと変わる

  • 彩雲華胥   5-1 三日前、地下牢にて

     ――――三日前。 玉兎。姮娥の邸内。地下の結界牢。「姉様、出して! どうしてこんなことっ」 信じられないという顔で少女は声を荒げる。見上げた先にある、にこやかなのにどこか冷たい眼差しに、愕然とした。まさか、身内であるはずの姉に牢に入れられるとは思ってもみなかった。「お止めなさい、椿明。なにを言っても無駄よ」「母上、どういう意味ですか?」 先に捕らえられていただろう、母であり姮娥の宗主である薊明が、力なく言葉を紡ぐ。「すべてはこの子のせいで起こったことだからよ」 え? と三女の椿明は人形のように大きな眼を瞠った。 癖のある肩までの薄茶色の髪の毛は、右のひと房だけ三つ編みにしており、赤い椿の耳飾りを付けていた。紺青色の上衣下裳に藍色の広袖の羽織を纏っている十二歳の少女は、表情が豊かで、今も疑問だらけの顔で宗主と姉を交互に見やる。「それは言いがかりですわ、母上。すべての原因は母上、あなたにあるというのに」「だから、何度も説明しているでしょう? どうして理解できないの?」 青白い顔をした薊明は、疲れた声で娘である蘭明に問いかける。 薄茶色の長い髪の毛を頭の天辺で大きなお団子にし、その周りをぐるりと一周するように三つ編みにして留めている。そこに銀の装飾が付いた簪をふたつ斜めにさしていた。冷たそうな切れ長の灰色の瞳が、落胆の色を浮かべている。 迫力美人で、全体的に冷たい雰囲気を纏っている宗主は、女性にしては低めの声で、刺々しさがある。椿明と同じ紺青色の上衣下裳、藍色の広袖の羽織を纏っており、胸元に瑠璃色の玉が付いた首飾りをしていた。耳には薊の耳飾りをしている。「いい訳は結構ですわ」「蘭明!」 どうしてわからないのか、と。 十数日前。突然、都中に広まった謎の疫病。原因であろう特級の鬼である病鬼を数日後にやっと見つけたが、民を庇い、共に鬼を追い詰めていた術士数人と、自らも病に罹ってしまったのだ。 その疫病は、罹るとまずは倦怠感が出て、力が入らなくなる。その後、身体中に青紫色の斑点が表れ始め、熱が下がらない状態が続く。今のところ亡くなった者はいないが、感染力が高く、どの薬も効かないため改善策がない。 姮娥の邸に戻った後、宗主と術士たちは倒れた。術士たちがどうなっているかはわからないが、宗主だけは目覚めるとあの斑点は消えており、代わりにこの結

  • 彩雲華胥   番外編 約束の縁側 5

     無明は霊泉を離れ、森を抜けた瞬間、あれ? と首を傾げる。駆けていた足を止め、くるりと森の方を振り返った。「これ、どこで拾ったんだっけ?」 いつの間にか右手に握りしめていた高価そうな横笛をまじまじと眺め、次に左手に持っている竹筒を見つめた。  確か、霊泉の水を汲みに来たはず。水はちゃんと汲んでいて、竹筒は振るとたぷたぷと音がした。「ん? 俺、なんで濡れてるんだっけ? 雨、は、降ってないし」 水浴びをした覚えもなかった。「もしかして、妖にでも惑わされたのかな?」 霊泉の前までの記憶しかどうしても思い出せず、一体なにをやらかしたのだろうと不安になる。しかし、握りしめている横笛を捨てる気にはなれなかった。その先についている赤い紐が目に入る。 自分の髪紐と同じ色のその飾り紐が、とても鮮やかで映えて見える。「まあ、いっか。怪我はしていないみたいだし」 楽観的な考えで、そのまま走り出す。不思議な体験をしたな、くらいの感覚で無明は特に気にしないようにした。 邸に着くと、藍歌がすでに戻ってきており、濡れている衣を見て大いに心配された。 しかし、何も覚えていない無明は、適当に理由を作って安心させるしかなかった。「暑かったから我慢できなくて、霊泉で水浴びをしてきたんだっ」 もっともらしい理由を答えたが、最終的にはひとりで森に行ったことに対してさらに心配されてしまった。 その夜、持ち帰った横笛をくるくると回して色んな方向から眺めていた。見たところ、ものすごく立派な竹でできた高価な宝具だと解る。 少しだけ吹いてみれば、霊力がそこから溢れ、周りに散らかっていた紙たちが部屋中に舞い上がり、さらに部屋が散らかってしまった。「すごい。これなら霊力が弱くても、使い方次第でなんとかできるかも」 目を輝かせて、笛を掲げる。そして立ち上がると、藍歌の部屋へと大きな足音をたてて、慌ただしく駆けて行く。「母上! 俺に笛を教えて!」 突然入って来て、大声で楽しそうに言い放った無明に、藍歌は目を丸くする。「急にどうしたの? 笛は自分には向いてないからいいって、前に言っていたのに」「今は笛を吹きたい気分なの! 上手に吹けるようになれば、母上の琴と一緒に合わせられるでしょ?」 またもっともらしい理由を付けて、無明は藍歌の膝の上に座ってお願いをする。 ふふっと嬉しそう

  • 彩雲華胥   番外編 約束の縁側 4

     姿が見えなくなるまで見送って、少年は視線をそれとは反対側の森に移す。暗がりで身動きが取れない状態で地べたに這いつくばっている醜い姿の妖鬼は、近づいて来る足音にガタガタと震えだす。 "それ"はひとの姿に似ているがどこか歪で、耳が尖っていたり、大きく裂けた口には牙が見えた。漆黒の瞳は左右大きさが違い、身体も少年と同じくらいだが、手が異様に長かった。「お前は誰の命令であのひとを狙ったのかな?」 地面から離れられず這いつくばっているのは、呪縛符で身体の周りを覆われているせいだろうが、それ以前に両足を潰されているせいでもあった。 無明を霊泉に突き落としたその瞬間、目の前の少年に両足を潰され、呪縛符を付けられた挙句、邪魔だとばかりに森の方へ思い切り蹴飛ばされたのだ。 それはたった数秒の出来事で、その後はそのまま霊泉に飛び込んで行った。「わ、悪かった! ただの悪戯だよ! あんたの獲物だなんて知らなかったんだっ」「あっそ。そんな理由じゃ生かした意味ないね、」 横笛に口を当てようとした少年を制止するように、慌てて妖鬼が「待った!」と叫ぶ。 しかしそんなことは気にも留めずに笛の音が響き渡る。美しくも異様な音色に合わせて、妖鬼の身体の内側からぼこぼこと皮が隆起し始める。 声にならない醜い声を上げ、苦しそうに妖鬼は地べたを右へ左へと転がり出す。「い、言うからっ! ····や、やめっげぇっ!?」 舌をだらしなく出した状態で、血を吐き出す。音が止んだことに安堵して、はあはあと息を整える。「こ、黒衣を頭から被ってたから、顔は見ていない! 脅されて仕方なく、」「へー。で? ねえ、まさかそれが答えだなんて言わないよね?」 ひぃっと妖鬼はその冷たい嘲笑に思わず悲鳴を上げた。暗い森の中に二つの金眼が光っているように見える。 金眼の鬼はこの世にただひとりしかいない。数少ない特級の鬼の中でも、特に厄介な存在。 それ以下の級の妖鬼たちにとっては最恐最悪の鬼。その通り名さえ呼ぶことを赦されない、格上の存在だった。「あれは、烏哭の連中に、違いないっ! 逆らえなかったんだっ」「それも答えになってないよ。つまりは解らないってことでしょ」 甲高い音が鳴り響いた後、潰れたような声と共に、妖鬼の身体は内側から破裂し、バラバラになった血肉が地面に広がった。 少年を避けるように飛び

  • 彩雲華胥   番外編 約束の縁側 3

     夏のある日のこと。 無明は邸をこっそり抜けて、裏手にある泉の方へ歩き出した。日差しは強く、じりじりと生白い肌を焼いた。 藍歌が珍しく本邸に呼ばれているため、今が好機と従者の目を盗んで邸を出てきたのだ。 森の入り口近くにある泉のため、ひとりで行ってはいけないと言われていたが、どうしても行ってみたかったのだ。 昼前なのに森の中は薄暗く、ひんやりとしているせいか汗がひいていく。北の森とは違い、怪異はほとんど起こらない小さな森だが、七歳の子どもがひとりで来て良い場所ではない。 少し歩くと開けた場所に出て、光が射して眩んだ視界の先に広がったのは、透明度の高い澄んだ泉だった。そこは地面から湧き出る霊泉で、霊力や傷を癒す効果があるらしい。「綺麗な泉だなぁ。見る角度で色が変わって見える。まさに霊泉って感じだね!」 透明なのに光の反射で青や緑に色が変わるのが面白く、思わず泉の周りを歩きながら目を輝かせる。 金虎の公子なのにもかかわらず、従者が纏う黒い衣を纏っており、腰まである黑髪は頭の天辺で赤い紐で適当に括っていた。 額から鼻の先まである仮面を付けた少年は、表情が見えないが楽しそうに弾んで歩いている。手には竹筒の水筒。目的は霊泉の水を汲んで持って帰ることだった。 邸からほどんど出られないため、藍歌がたくさんの本を持って来てくれるのだが、書いてあることは実際目で見て確かめてみたいし、触れてみたい。(汲んだらすぐ戻らないと) 無明は草むらに膝を付いて、前に屈むとやっと竹筒の先が届く。短い腕ではぎりぎりの位置で、なんとか少しずつ水が溜まっていく。 しかしあと少しでいっぱいになるというその時、急に身体が前に傾いだ。「え?」 集中していた無明は無防備で、後ろに現れた影にまったく気付かなかった。背中を強く押された感覚があり、その後はもう水の中だった。氷水のように冷たい霊泉は子供にはとても深く、藻掻いても浮かび上がれない。(····まずい······息、が、) 油断していた。何に押されたかもわからない。人か、それとも妖か。けれども今のこの状況では何も考えられなかった。キラキラと光るのは太陽の光なのか、それとも苦しくておかしくなった自分の頭の中なのか。 遠のく意識の中で、唇に柔らかいものが触れたような感覚があった。 小さな手で頬を覆われ、肺に空気が送られてく

  • 彩雲華胥   番外編 約束の縁側 2

     藍歌は驚いてしばらく言葉を失っていた。 それがどこからやって来てなぜここにいるのかということはとりあえず横に置いておいて、生まれたばかりの赤子が無事であることに安堵する。 暖かな日差しと青い澄み渡った空。縁側は明るく、置かれた籠の中ですやすやと眠る赤子の顔はどこまでも穏やかだった。 その籠を守るかように丸くなって眠っている黒い物体もまた居心地が良いのか、まったりとくつろいでいるように見える。「あらあら。立派な毛並みのわんちゃん。どこから入って来たのかしら?」 よく見れば門が少しだけ開いていた。そこから入って来ただろう、野良犬には到底見えない、立派な毛並みの黒い大きな犬に話しかける。 藍歌の問いかけにぴくぴくと耳が動く。それが可愛らしくて、思わず肩を揺らしてくすくすと笑う。 邪魔をしないようにその場にしゃがんで、赤子の頭を撫でながら優しい声をかける。「無明、ほらほら、見て? わんちゃんが遊びに来てるわ。嬉しいわねぇ」 藍歌が近づいてもなにも気にしないその黒犬は、人に慣れているのかしっかり躾けられているのか、とにかく品がある。 その声に応えるようにぱちっと大きな瞳を開いた赤子が、その翡翠の瞳に藍歌を映すと、短い両手をめいっぱい伸ばして上下に動かした。 包まれている白い布に貼られた封印符が剥がれそうになって、慌てて手で押さえると、藍歌はいたたまれない思いで、伸ばされた小さな右手をそっと包み込む。「あなたの父上が頑張ってくれてるから、どうか、もう少しだけ我慢してね?」 気付けば黒犬はお行儀よくその場に座っていた。黒犬は思った以上に大型で、藍歌が縁側に正座をしたら、ちょうど同じ高さに金色の眼がある。赤子は興味があるのか犬の方へ手を伸ばそうとするが、届かない。 それに気付いてかどうかは解らないが、黒犬は自ら頭を下げて覗き込むように鼻を差し出す。触れられたことに満足したのか、赤子はご機嫌な声を上げてきゃっきゃっと笑った。「ふふ。この子、あなたのこと好きみたい」 首を下げ赤子に鼻を触らせたまま、金色の眼が様子を窺うように少しだけ藍歌の方に向けられる。 首を傾げて藍歌はにこにこといつものように花のような笑みをこぼしたかと思えば、眼を細めて悲し気な表情になる。「私のせいで、この子が苦しむのは嫌だわ」 黒犬は顔を上げ、藍歌の腕に頭をすり寄せる。人

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status